2018年11月22日

ジェリーモファット自伝

ジェリー・モファット自伝「Revelation」最高でした。

彼が生まれた1963年から、プロフェッショナルクライマーとしてのキャリアにピリオドを打った2002年までを中心に記述。自伝ではあるものの、世界中の岩場に出向いて出会った、その時々の重要人物やトピックに触れながら進むため、その時代の登攀史や、ハングリーなクライマーのライフスタイルを深く知ることができる良著。

面白すぎるイシューは読んだそばから我慢できずに呟いたので、トゥギャッターにまとめました。

https://togetter.com/li/1290873

その他の印象的なシーンをご紹介。

p.79 ヨセミテに行った友人が、ジョン・バッカーがミッドナイトライトニングのマントルを返してから振り返って「pretty cool, huh!」と言ったという話を聞いたジェリー。ウェールズでボルダリングしていた際に、犬連れの老人が歩いてきたので、チャンスとばかりルーフを登ってリップに片手でぶら下がってチョークアップし、「pretty cool, huh? 」と決めた。
老人と犬は、ちらりとジェリーを見て、何も言わず立ち去った。

p.84 初めて聞いた名前だが、フランケンユーラのローカルで、Flipper Fietzというドイツの橋本覚のような人が出てくる。あるプロジェクトに対しトップロープでムーブが全てできたら、氏にとって、そのプロジェクトは興味の対象外になるのだそうだ。氏がどうしても解決できなかったムーブをジェリーが解決した際には狂喜乱舞で喜んだのに、そのラインがやっと繋がったとジェリーが報告した際にはほぼ無反応だった由。

p.90 色々なところでバム的生活を送ったが、シェフィールドで住んだ、失業保険者の溜まり場のようなシェアハウスが最も無秩序だった由。そこへ一緒に住もうとベン・ムーンを誘うジェリー。「寝室に懸垂バーがあるから起きたらすぐ懸垂できるぜ!」
→一緒に住んじゃうベン。

p.93 ビュークスでChimpanzodromeという8aをオンサイトした日が、クライミングキャリアを振り返って最高の日だと語るジェリー。その日は21歳の誕生日で、岩場を後にしてからのヒッチハイクに苦戦し、暗くなり諦めて道端で寝袋にくるまりながら、ただ幸せを噛み締めた由。

p.97 ビュークスで切り詰めた食生活(ヌテラとバゲットと沢の水)を送っていたジェリーとベン。街でギュリッヒの友人であるヘルムートにカフェとクロワッサンを奢ってもらい思ったこと。「Cool! A croissant!」

p.106 フィーニックスをオンサイトした時の話。ラスト一手を取るムーブ、足位置を変えて何度か試すが取れずに焦った時に思ったこと。ラスト一手に迫ることと、実際にラスト一手を保持することの差は、実際には1ヶ月のトレーニングの差があるかもしれない。自分はその1ヶ月分のトレーニングをやってきた。そう信じてムーブを起こした、といったような話が書いてある。

p.110 チムニーは苦手だった模様。ロン・カウクとロストアロースパイアに登った際に、抜けきれないピッチがあったと書いてある。でも、後年、ノーズワンデイとかやってるんですよね。

p.113 肘を痛めていた間はドイツのスキーショップでバイトしていた。なんか微笑ましい。

p.129 ショーンマイルズ登場。「兎に角一緒にいると楽しいやつなんだ」。映像作品Stick itでの2人のイチャイチャぶりを見てから読むと、ニヤリとしてしまうでしょう。

p.129 ビュークスでLa Rageをトライする際に、いつも使用している11mmロープではなく、8.5mmロープを使ったとある。時代的に、それハーフロープorツインロープの片割れですよね?こわー。

p.130 La Rage はトップ付近に深いポケットがあり、アントワーヌ・メネストレルがコンペで買った時のにトロフィーが置いてあるらしい。今でもあるのかな。

p.136 UK初の8cルートであるLiquid Ambarの話。弟のトビーが急死し、悲しみにくれたジェリーによる、トビーへのトリビュートとなった。ルート名は、園芸を勉強していたトビーが植えたいと言っていた木の名前から。

p.141 ギュリッヒの交通事故死について。結婚して間も無くのことだったらしい。ジェリーが読んだ弔文が全文記載されている。涙。

p.161 コンペでなかなか勝てなかったジェリーはメンタル面の改善を進めるとともにフィジカル面も強化するために複数のハードなボルダー課題のリンクアップを設定し、そのリンクアップを更に何周もするようなサーキットにトライした。その際に、レストポイントで次のサーキットに備えるたびに「このサーキットはディディエ(ラブトゥ)の分」「このサーキットはパトリック(エドランジェ)の分」「このサーキットはシュテファン(グロバッツ)の分」と心の中で唱えていたという。
→ジャギ戦のケンシロウかよ!
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p.165 ボルダーコンペでルールを誤解していて、終了ホールド片手保持で降りてしまい勝てなかった話が出てくる。今は当たり前の終了ホールド両手保持も、飽くまでコンペティションルールとして始まり一般化していったものであることが伺える。自分がクライミング始めた20年弱前は、ジムでの終了点マッチはそんなに一般的じゃなかった気がする。

14章 お金に対する考え方とプロフェッショナリズムに対する考え方の変遷について。クライミングを始めた当初は、ジェリーにとってのプロフェッショナリズムとは、全てをクライミングに捧げることであり、金銭を得ることではなかったが、徐々にスポンサーとのwin-winの関係を築くことが重要ということに気づいたというようなことが書いてある。スポンサーを獲得するのは上手だった由。

p.190 ジェリーがオーナーのクライミングジムであるfoundryの立ち上げに関する記述あり。UKでの商業ジムのファーストケースのようで、さしずめジェリーはUKの寺島さん。

p.197 当初、ボルダーはルートのためのトレーニングと捉えていたが、初めてのアメリカツアーでジョンギルプロブレムめぐりをしてから、ボルダリングそれ自体の魅力に夢中になった。

16章 クライミングの余暇にはバイクやカートなどハイスピードスポーツをやっていて、怪我もたくさんした模様。キャリアの後半5年くらいになって、それらのスポーツは危険すぎることを悟り、ゴルフを始めた。
→遅いよ!

16章 年表としては比較的明瞭に、2002年にはプロフェショナルクライマーとしてのキャリアに終止符を打っている。リタイアのきっかけは複合的(子供が生まれたり、ヤングガンの台頭だったり)であるものの、共通して言えるのは、自らの全て100パーセントを注ぎ込むのがジェリーにとってのクライミングであり、それをハイレベルに保ち続けるモチベーションが維持しきれなくなったということ。
突き上げ世代として、平山ユージ、フランソワ・ルグランや、更に若いクリス・シャーマなどが挙げられている。
posted by いーづか at 15:11| Comment(0) | T-Wall江戸川橋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする